Let Life Loose

映画と革製品についての紹介がメインのブログです!特に革靴についてはディープな情報をあげていきたいと思ってます

戦争帰りの祖父のこと

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

ということで、今回は過去に祖父について語った記事をリライトしてアップしようかと思います。

 

父方の祖父は私が小さいころに亡くなったので、

私にとって祖父といえば、母方でした。

父方については、怖かった記憶と、そんな怖い祖父が間際、たくさんの管につながれしゃべることもままならない状態だったことに、

幼いながら死の恐怖を感じさせ、あまり考えないようにしていることもあるかもしれない。

 

母方の祖父は九州の田舎訛りで語尾に「チ」がつき

年老いてなお食欲旺盛で、笑顔が明るく

みんなに好かれる人でした

 

端的に言って偉大でしたね
こうありたいという人物であるとともに
常にかなわないと思い知らされる人物でした。

 

 

祖父は大正の終わりに福岡の吉井という町で生まれ


当時の満州国の大連にあった商業高校に進学

そのまま学徒動員で戦時徴用され
ロシア戦線に投入

終戦後はロシア軍の捕虜となり
1年半のシベリア勾留をへて日本へ帰国。

 

 

という、戦後しか知らない人間には想像もつかない壮絶な人生を送った人間でした。
多分この世界の片隅にの片隅にのすずさんよりも
1~2歳年下だと思います。学徒ですからね。

刈谷さんの子供と同じくらいかもしれない。

 

belphegor729.hatenablog.com

 


哲さんと周作さんは海軍でしたが、祖父は陸軍ですね。


少年兵でしたから、戦車にのってどうこうという勇ましい話はありませんでしたが、時に面白く、時に残酷な戦時中の話を生きているうちにいろいろと聞かせてもらいました。

 今考えると、満州国の学校に福岡から進学するということを考えても、満州国が独立した国であるという主張が危ういなぁと苦笑いをしてしまいますが、
 夏休みの里帰りに船と汽車に乗って何日もかかるとか、なかなか当時の交通事情がうかがえる話でした。

 戦中の話はもっとドライで、人の生き死には最終的には運なのだろうなと、感じるようなエピソードばかり

 祖父のエピソードの中で、印象に残ったものをいくつかご紹介したいと思います。


 一つは祖父がインタビューに答えたものです。

 

 

翌日、部隊は撤退を始めたが、途中でソ連軍と遭遇して散り散りになってしまった。50人ほどの一個小隊規模になりながら撤退を続けていたところ遭遇したのが、50人ほどの日本人の一行だった。国策で満州や内蒙古などに入植していた開拓団(満蒙開拓移民団)だ。

 壮年の男は関東軍に徴兵されていたので老人や女性ばかり。子供もほとんどいなかった。国境地帯から逃げてきた一団は、途中で武装した満州人から何度も襲われたといい、少数とはいえ日本兵に出会えて安心したのか、涙を浮かべながら走り寄ってきた。

 彼らの話は、俄には信じがたいものだった。逃げる時に足手まといになる赤ん坊や幼い子供たちを小屋に閉じ込め、断腸の思いで火を放ったと聞いた時は言葉が出なかった。彼らと話している時、ふと見ると地元の農民らしき中年の満州人男性3人が私たちを遠巻きに見ていた。

 それに気付いた開拓団の一人が、5歳ぐらいの男の子を指さして、「この子の家族は武装した満州人に殺されたんです。あいつらも農民を装っているけど私たちを殺そうと考えているんだ!」と声をあげた。悲惨な逃亡生活を送る彼らは、精神的にも追い詰められていたのだろう。

 

 

 

 疑心暗鬼になり、精神がすり減る環境を強く意識させられます。

 次のエピソードは、祖父がとある街を防衛していた時のこと

部隊を敵軍の視察に向かうチームと、街の防衛を行うチームに分けることがあったそうです。
 祖父は敵軍視察のチームに編入されて、「あぁこれは自分死んだな」と思ったそうですが、無事視察を終えて戻ると、町がなくなっていたそうです。

 

最後のエピソードは、終戦間際

物資が底をつき、さあ玉砕だと最後の酒盛りを部隊で行ったそうなんですが、祖父は酒に弱く、朝起きたらだれもいなかったそうで、そのまま終戦を迎え、ロシア軍に捕虜にされたそうです。

 その部隊の仲間とは終戦後で会えていないそうなので、祖父が酒に強かったらと思うと、不思議な気持ちです。

 

 こんな小さな偶然で、人の人生は本当に変わってしまうんですね。

 

 シベリア勾留も体調を崩したことで、病院送りになり逆に帰国が早まったそう

 病気は不幸ですが、それにより早く帰国できたのであれば禍福は糾える縄の如しというか、人間万事塞翁が馬というか

 

その後早稲田大学に入学し、本当は商社に入社したかったらしいのだけど

実家から九州に戻るよう強く言われ、地元の地銀に入社

 

 地銀を定年後、その時の縁で市民大学の職員を死ぬまで続ける傍ら、写真撮影を老後の趣味にし死ぬ直前まで元気な人でした。

 

晩年には(といっても晩年になるとは思ってもいなかったですが)

撮りためた写真を地元のコンクールに出展するようになり、いくつもの賞を取っていました。


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定年後ですよ。老いてなお技術の習得に貪欲な祖父は本当に尊敬する存在でした。


 正直100まで生きると思っていたのですが
 2年前の秋にすい臓がんが見つかり、年末に入院。
 翌年1月の半ばにお見舞いに行く予定だったのですが、
 年明けに容体が急変、帰らぬ人になりました。

 
 正月明け職場に向かう途中で母からの電話を受け取り、急遽帰宅。
 その時は間に合わなかったという後悔と
 正直祖母のほうが体調が悪く、祖母にばかりかまっていたという後悔

 

 いろんな感情がないまぜになっていましたが

 

 もう1年半が過ぎます。

 祖父のことを考える時間も次第に減ってきましたが、

 それでも私の実家をまとめていたのは祖父だったのかと

 改めてその人柄に思いを馳せることは少なくないです。 

 今の自分を見返すと、生前いろいろな人に感謝される存在だった祖父の孫として恥じない生き方ができているとは到底言えない。

 祖父の存在の大きさを改めて感じます

 

私のTwitterのホーム画面 の写真は祖父の遺作になります。

癌で体が動かなくなってからも、自宅の庭に米を巻き、それをついばむ雀の写真をひたすら取っていたそう。

 

その生への執念は若いころの経験なんだろうか。優しくもぎらぎらしていた祖父のことが

今とても懐かしいです。

 

 

 miyugurumetabiさん、コメントありがとうございます。 はてなブックマークでのコメントができないのでこちらで失礼します。

 

祖父は若い代に伝えないととの思いで子や孫にいろいろと語ってくれましたが

紹介したインタビューの話はしてくれなかったので、やはり秘めておきたい苦しい思い出もほかにたくさん持っていたのだろうなと思います

 満州で暮らしていて写真が趣味だと、確かに似ていますねw

もしかしたら満州ですれ違っていたかもしれません