最初に言っておきますがネタバレ全開です。
まだ見ていない人がこのブログに来ることは皆無だとは思いますが念のため。
すーー
はーー
ということで、幾度とない延期を繰り返し、最初の新劇場版エヴァンゲリオン序から10年以上の月日が経ってしまいました最終作
そもそもの立ち上がりが、エヴァンゲリオン旧作品の10周年を経て、改めて作り上げるエヴァンゲリオンだったのに、その新劇場版が始まってから完結するまでに
旧エヴァンゲリオンが公開されて新劇場版が制作されるまでよりも長い時間がかかってしまいました。
おおーいなんでやねん。
という気持ちもありますが、思えば、シンエヴァンゲリオンはコロナに
Qは東日本大震災と、まさに激動する日本を象徴するかのような製作スケジュールだったのかもしれない。
Q・シンとみることなく旅立った方もたくさんおられると思うと、
中学卒業後の春休みに、エヴァおたくの友人の家に拉致され、まだテレビ版を見てすらいないのにスプラッター映画だといわれてみさせられた劇場版エヴァンゲリオン「Air/まごころを君に」に頭を殴られたかのような衝撃をうけ
春休みの間ツタヤでTV版を全部借りてみて
BGMを手掛けた鷺巣詩郎さんのアルバムを買ったりして
Shiro Sagisu-Thanatos –If I Can't Be Yours–
そして大学生の時に劇場公開された新劇場版エヴァンゲリオン 序
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [Blu-ray]
エヴァが始まって終わるまで四半世紀
そういわれると恐ろしいですね。
あまりにもヒロイックな破から、東日本大震災を経て大きく方向を転換したQ
そしてその先
なんか本当に、けりをつける気分で見てきました。
ということで感想です。
- もはやリアルではなくファンタジー
- 全体的に母性・父性を感じる作品でした
- 庵野監督やりたいことを詰め込んだなぁ
- なんだろう、すごくSWを思い出した
- 楽曲も相変わらず素晴らしかった
- ラストは賛否両論よなぁ
- 最後に
もはやリアルではなくファンタジー
悪いという意味ではないです、ただ、Qで感じた拒否感の多くはここだと思っていて
旧作、および破までのエヴァンゲリオンって
おなじ庵野監督が手掛けたシンゴジラみたいに、
現実世界に巨大な侵略者が攻めてきたときにどう対処するか
という現実感のあるラインをある程度守っていたと思うんですよ。
ある程度ですよ。シンゴジラほど明確にしているわけではないですが
それでも、制作できるエヴァンゲリオンには限度があるし
外部電力に稼働を頼り、それがたたれると短時間しか稼働できない。
それがQでは、少なくともゼーレ側では比較的容易に量産できていて、エヴァインフィニティなんてなんじゃそりゃですよねw
コアに手を付けただけでかく乱しつつ張り付いて爆発するなんて特攻兵器みたいなエヴァもいるし
エヴァインフィニティに至ってはもう何が何やら、その物量を生産するための資源はどこにあるのよと
ヴンダーもそう、おおよそまっとうな資源量で製造できる代物ではないと思うんですよね。
リアルロボットアニメだと思ったらスーパーロボットアニメだった
みたいな。
シンではとうとう人のカタチを捨てたエヴァンゲリオンが大量投入され
さらに人類補完計画の要素としての無限量のエヴァ(エヴァインフィニティ)
まで登場するに至り、
「これは破までの世界法則、常識は捨ててみないと楽しめないな」
と、握っていた最後の抵抗感をすべて手放すことにしましたw
そこについてぐちぐちいうよりは、そういうものと思ってみたほうが多分勝ちだと思ったのでw
全体的に母性・父性を感じる作品でした
破からQの間に14年の月日が経ちましたが
姿の変わらないチルドレンとゲンドウ・冬月
大きく見た目の変わらなかった葛城・赤木と
たとえ数年後程度の隔たりだったとしても成り立つような構成で
あまり年月を感じることができませんでしたが
シンではその他の生存者、鈴原夫妻と相田を登場させることで、14年の月日に強い意味と、メッセージを持たせてます。
なんつーか、監督、大人になったんだろうなって、すごく感じた。
25年だもんね。エヴァ作ったときは20代???
凄いなぁ若さだなぁ。と思いつつ、やっぱり旧作って粗削りで、また青年期を経ての無力感もすごくプッシュされていて
もちろんそこがエヴァンゲリオンを一躍時代を代表する作品に押し上げた原動力でもあるんだけど
Qで、単なる旧作の焼き直しにはしないとファンの予想・期待(あえてこういうけど)を裏切ってまであのような形の作品にしたこと、そしてその先を見させてもらえたことに、Qの内容に少し失望した身としては感謝の意しかないです。
この続編だからこそQも受け入れられる。
そんな気がしました。
母となった委員長とレイ「のそっくりさん」とのやり取り。
ケンスケとアスカとの関係性も酸いも甘いもかみしめた二人だからこそ。
時が停まった二人に変化を促すことができたのかなぁと思うんですよね
特に旧作品に合ったケンスケのアスカへの淡い感情をこのように新劇場版に持ってきたことは何というか胸が熱くなりました。
また、作中で親になったキャラクターとしてミサトもそうであったとカミングアウトされました
彼女もまた破からQでえらい無味無臭なキャラになってしまいましたが
今回その胸の内に秘めた思いがつまびらかになりQとシンはやはり2つで一つの対になる作品なんだなと感じました。
そもそもQとシンって間を置かずに公開するはずだったんだよね。当初の予定では。
下手したら同時上映だったんじゃないかな。
私の記憶が確かなら。
序・破・急で構成のセオリーとしては完結するから本来であれば4作目はおまけ、とまではいかないけど、3部作を補完する作品で、間違っていたら教えて、確か30分くらいの作品になる予定だったと思うんだ。
ミサトさんの変節はネットでもたびたび揶揄されてきたところではあるので
そこの意味を知ることができなかった人達がたくさんいることはつらい。
Qのミサトさんの評価はあまりにも低く
そしてその評価がシンで不当であることがわかってしまう。
生きて、この作品を見れてよかったなと本当に思います。
そして、やはり旧作と新劇、さらに言えば私はちゃんと読んでいないのですが漫画版エヴァンゲリオンと新劇を比べても大きく異なるのが、碇ゲンドウに割かれたリソースの多さだと思います。
庵野監督大人になったのかな
と強く思ったのはそのゲンドウの父性についてものすごくフォーカスし、フィーチャーしたところ。庵野監督はお子様がいないそうですが
子供から見て得体のしれない存在ではなく
25年の時を経て
子供に理解されたいオトナコドモ
ある意味で、いつまでたっても思っていた大人になれない子供だった人たちの代表として、ゲンドウは大きくクローズアップされたなと思います。
シンジはやはりゲンドウの子で、ゲンドウはシンジの親なのである。
破でも少し描かれていてた家族というものに怯える父親の姿を
Qで封印した後でシンでドバっと解放したなと
私がそうだもん、善き親になれるかわからないような人生を歩んで
でもありがたいことに伴侶を得、子宝に恵まれ
こんな人間が家族を持っていいのだろうか、親になっていいのだろうかと
悩み、苦しみながら子供と一緒に成長していく
その中で、自分を変えてくれた伴侶を失うつらさ、怖さはいかほどの者か
明らかにゲンドウは私よりも伴侶に依存していたから
その恐怖は計り知れない。
なまじ知識があり優秀であったがために、世界を巻き込む陰謀に手を染めてしまう。
本作は旧作と同様に正しく”セカイ系”であったけど
その中心はシンジではなくゲンドウ少年だったのかと
似ているようで全く違う。
全然違うのにどこか似ている
新劇場版のアプローチ、そのさじ加減にある意味感動すらしてしまいました。
庵野監督やりたいことを詰め込んだなぁ
最初の項でも語った話だけど、Qは個人的にあまり乗れていなくて
ただ、まぁ考えてみたらエヴァンゲリオンって
皆が見たいものを作るコンテンツじゃなくて
庵野監督が作りたいものを、観客は受け取るだけ
あまりにも観客に迎合しすぎるのもエヴァらしくはないのかもしれない
と思ったりもしたり
にしても終盤の1号機VS13号機は
「監督自分のやりたいことを詰め込んだなぁw」
と、一周回ってにやにやしてしまいましたw
エヴァンゲリオンについては、サイズ感だったり電源供給がたたれた後の活動限界時間だったりとウルトラマンをオマージュした設定が多くありましたし、特撮についての知識も豊富にあり、それを生かした作品作りをしていましたが・・・
過去の場面で戦う2体のエヴァンゲリオンのシーンは、えらい簡単に建物というか、オブジェクトが吹っ飛んで行って、ちゃんと固定された建築物の動きをしていないことに違和感を覚えましたが、まさか空までもが書割で、その先に撮影スタジオが出てくるとは・・・
アニメで特撮をやりたかったのかと笑ってしまいますよねw
その後のやたらクオリティの低いエヴァインフィニティから生成された首のない新人類のCGとか、不気味の谷間を揺蕩う綾波の顔とか、なぞの実写とか書きかけのコンテとか完全に旧劇場版オマージュなんだろうな。
最後にコンテからセル画に代わるのも、わざとやっていますという演出でもありつつ、イマジナリとリアルの切り替えも表現しているのかもなぁ
最後は、旧アニメではついぞ会うことのできなかったゲンドウとユイが再開することができたのも感無量。
感無量だよね。特に、長いセリフでとは言え、いかにゲンドウがユイを愛していたか、必要としていたか。
ゲンドウもシンジも同じなんだ、そしてそのことを受け入れるシンジがすべてを終わらせるエンディングは、なんというか、破からQにかけてどん底にまで落とされたシンジが、シンの序盤で浄化されそして物語の主役へと返り咲く
承認から拒絶、そして許容へと動いていく流れがとても美しく
4作そろって一つで作品であることを強く感じました
なんだろう、すごくSWを思い出した
繰り返すけどQは私の求めるエヴァンゲリオンではなかった。
その思いを引きづりつつシンを見に行ったわけだけど
同じ感情を抱えて見に行った作品にスターウォーズのシークエルがあったなぁとふと思い出しました。
スターウォーズEP8は私の中で本当に評価が低くて、そして世界中でも賛否両論でした。
Qもそうだったよなぁと思うんですが
続編で完全に差がついてしまったなと
SWはその批判の声に押されて、はっきり言って日和ってしまった。
当初案を捨て、予定されていたトリンコレヴォロウ監督を切り捨て、ひとまず評判の良かった(多分にご祝儀的評価であったと思いますが)JJエイブラムス監督に無難な完結作を作らせてしまった。
結果、EP9はEP8肯定派からも否定派からもそっぽを向かれる、結果としては良い興行収入を得たかもしれないけど禍根を残す作品となってしまったと思います。
それに対して、当初の案ではないとは思うけど、監督のカラーを突き通した本作は、Q否定派の私としても、あれは必要な過程だったのだと肯定することができるようになりました。
EP9についてもリークされた当初案はEP8をうまく昇華した、求めていたSWではないけれどもこれはこれで、という形ではあったと思うんだよね。
やっぱり、初志を貫徹した作品は強いんだなと
同じことは仮面ライダーゼロワンもそうだったけど
突き抜けた先にある感動ってやっぱりあるんだよなと思いました。
楽曲も相変わらず素晴らしかった
でも、今回特によかった気がする
全体的に耳に残るBGMが多く、またすごく効果的に挿入されていたと思うんですよね。
序盤の戦闘BGMもかっこよかったし
日常の時のもそう
さらに最終決戦でエヴァ2体を射出したときのとかほんと最高だった
サントラ買おうかなぁと思えるくらい良かったですね
ラストは賛否両論よなぁ
満足げに消えていくゲンドウ夫妻にちょっと笑ってしまいましたし
「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーが比喩ではなくガチであったことにも笑いましたがw
そこではなくて
いや、マリエンドが悪いってわけではないと思うんです。
シンジのことが好きだったアスカ、アスカのことを好きだったシンジ
お互いに共依存だった、あるいは好きであるように設計されていたアヤナミ
アスカとアヤナミはシンジが成長し、解脱(終盤のシンジはもはや解脱よね)するうえで、幼い自分の象徴であり
どちらとも別れるというのは確かになぁと思うは思うのです。
そのうえで、ある意味でずっと物語の外側でこの新劇場版エヴァンゲリヲンという作品を俯瞰してきたマリとともに歩むのも、理屈で言えばそうではあるのかもしれないと思いはするのですよ。
面白いなとすら思うん。
ただ、積み重ねがなさすぎよねぇ・・・
パンフレットでマリ役の坂本真綾さんが
「ファンの皆様にお叱りを受けないだろうかと、荷が重かったです(笑)」
と語っていて、演者でもそう思うか、そう思うよなぁと
なかなか急感は強かったよね。
ただ、最後まで見て思ったのは、「これはもしかしてまどマギなのかな?」という感想で
全能の力を手に入れた主人公が願ったのは、元凶のない世界
まどマギであれば魔女だし
エヴァであればエヴァンゲリオン
それを行うことできっとシンジ君はまどかと同じく傍観者になったんだろうなぁ
そして、マリは最初から傍観者だった
傍観者同士として共に生きることを選んだのかな、と納得することにしました。
まぁ私真綾さん好きだし
マリも好きなんでOKっす
アスカも好きだったけどあのケンスケならアスカとくっつくのは全然ありだと思う。
最後に
実は、ブログを書くまでは、
うん・・・まぁ・・・うん・・・
割と好きだけど、うん・・・
くらいの感情だったのですが
やっぱりブログを書いていくうちに、見ているときには気づかなかった仕掛けだったり、
自分の中の何に引っかかったのか、琴線に触れたのか
そういうのがわかってきて、いいですね。
そういった意味で、感想ブログをしたためるのはお勧め。
一応少し出遅れましたが旧作も学生時代に見ることができ、
新劇場版は幸運なことにリアルタイムで最後まで追いかけることができました
いつ死んでもおかしくないような事件がその間に何度も起き
そのうえで生きて本作を見れた幸運に感謝しつつ
最後まで完遂してくださった庵野監督またその他のスタッフに感謝して締めたいと思います